グランドサハラ エクスペディション - p1
月風かおり

いざサハラへ(出発〜タマンラセット)

【プロローグ】
褐白の砂、音も無く霊水の様に指からこぼれ落ちる砂。その砂が視界をうめ尽くす乾いた海。逆光に二分される光と陰。魔物の様な風紋。生き残る為だけの試練がある世界。

友人からもらったビン詰めの砂は紛れもなくサハラの砂だった。デスクの片隅で異世界の誘惑をし続ける砂がどうしても気になって仕方がなかった。私は2002年の夏、北米のコロラド、ユタ、アリゾナを走った時のあの寂漠の中の孤独感というか、何か計り知れない力に支配されている空間に立つ興奮を覚えている。絶域のサハラ砂漠か・・・私はどうしてもサハラを知りたかった。

しかし、この様なハードなエクスペディションに参加出来ることが可能なのか。ましてバイクで走破する体力、技量を持ち合わせているのだろうか、全く未知数。後に欲張って決断してしまう西アフリカ経由のサハラ縦断をも完走する事が出来るのか!?こんな自問自答を勝手に棚に上げたままでサハラ行きの準備をしてしまう。
気がつくと全行程一万九千キロ、サハラ砂漠往復縦断という道程の出発点に立っていた。


【チュニス発 いよいよサハラへ】
十一月の二十五日、日本出発、二十二時間のフライトを経て私はチュニジアのチュニスで出発を待つ。
手間取ったコンテナ上陸も無事終え、十二月四日、午後ついに私たちは遥か遠くガーナのアクラを終点とするサハラ砂漠縦断の一歩を踏み出したのだった。
昨日までの記憶と言えば、紺碧のチュニジアンブルーの空、シディブサイドの白い壁、最北端のブラン岬。この後、六千五百キロ海を見る事は出来ない。この先予想もつかない道のりに何か凄いものに出逢えるときめきを胸に抱いて、チュニジアの広大なオリーブ畑を縫う様に南下して行った。道はとても良い。

現地の人たちの生活は、日の出、日の入りのリズムだ。実にのんびりしている。Catsaを過ぎてからはしだいに緑が少なくなり、エルジェリッドの塩湖に立ち寄るルートはなつめやしのプランテーションがオアシスの香りを運ぶ砂漠の様相に変わってきた。
トズュールのホテルに着いた頃はもう日が落ちていたが、西の空の残照の中で逆光に浮かぶやわらかい砂丘の輪郭を見た時、すぐ手の届く所にサハラが待ちかまえていることを知った。それはその先に広がる巨大な怪物を想像させた。

次の日、サハラの入り口とも言うべきオアシスの街、トズュールを八時に出発し、アルジェリアとの国境に向う。もう既に一本道の両側は背たけの低い草だけがかろうじて生き残っている風景が続いていた。
今回私がサハラ縦断の相棒に選んだのは、ホンダXR250(2003年式)である。
と、さも幾多のバイクからチョイスした言い方だが、むろんオフ車を自在に操れるという次元でもなく、小回りのきく軽いXRとこのところ付き合っている為、オンのCB1300が時々焼きもちを焼くという日常。このエクスペディションでは250ccクラスが大半で450ccが2台、1200ccビックオフ1台という面々が風餐雨臥をくり返し地中海からギニア湾へ大サハラ砂漠の縦断に参加している。



【国境通過 チュニスよりアルジェリアへ】
チュニジアの出国に時間がかかり、アルジェリアの国境ゲートに着いたのが昼前だった。ほんの数十分前、同じチュニジア側の手続きを先に終えたギター弾きのファミリーが木陰で番が来るのを待っていた。
事務所の中は他の入国者でざわついていたが炎天下ほとんど外に放り出されている者は半ばあきらめ顔でもあった。
これはかなり時間がかかりそうだ。ギター弾きの青年とはつい先程の出国で奏者と観客、ドレミを教えてもらった仲だ。彼は隣に座っている臨月に近かろう妻のお腹をさすり紹介した。
スケッチブックを手にしていた私はさっきの演奏のお礼にチュニジアで取ったスケッチを見せた。「それじゃこの子を描いてくれない?」「OKいいよ」という内容の会話。子供はなかなかじっとしていない。押えるしかめつらの顔を彼がしたので泣きべそになってしまった。「もういいよ。遊んできなさい」彼の言葉はアラビア語なのでほとんど分からない。しかし不思議なもので、お互いに伝えようとする意思をぶつけ合っていると分かってくるものなのだ。

彼は私にフランスに行った事があるか聞いた。「ノン」である。
実は私はヨーロッパを旅した事が一度もなかった。その後、彼はいろいろとしゃべりながら自分の荷物中身を探り始める。そして捜しあて、握り締めて手の中にあったものはパリのエッフェル塔のキーホルダー。と言ってもキーを取り付けるホルダーが壊れているタワーだけのもの。「これをあげる」と手渡される。「ありがとう」と胸に手を当てる。その後も彼は何か伝えたい事を話したが分からなかった。

アフリカの歴史、うすっぺらな知識しかない私にとってアルジェリアが1962年にフランス領から独立した事くらいしか知らない。自分は旅する国の事くらいもう少し深く知っておくべきだと反省してしまう。

まもなく誰かが彼らを呼びに来た。番が来たのだ。
私は彼と握手して二歳になろうかというチビにチュニジアで買ったスニッカーズを手に握らせた。私は彼の妻のお腹をさすりながら「気をつけてね」の意思を伝えた。これは後々つくづく感じることなのだが、こんな荒涼とした砂漠の一本道の旅をしていると、同じ方角に向う者は互いにいとおしく逆方向から来る者は頼もしく感じるのだ。それは先行きのルートに希望があることを意味する。対向車と何時間もすれ違わないと不安になったりするのだ。

彼らがゲートをくぐった後、私は国境の崩れかけた壁の一番上に登った。そこはあまりにも乾ききった風が吹き抜けていた。夕頃、紅の太陽が西の空を舞台にサンセットショーが終わるとすべてのバイクの入国手続きが完了した。

私はこの日初めて燃える様なアフリカの夕焼けを目にした。そして黄昏と夜がやって来た。アルジェリアの規則で日没後、外国人の移動は許されていない為、国境近くのユースホステルが今日の宿となる。ひと通りの寝仕度をして外に出てみると満点の星。人の造りだす明かりが全くない闇夜の星は全部一等星に見えた。
我々はチュニジアの出発の遅れ一日と昨日の入国で手間取った100キロ分の行程をかかえている。


【アルジェリアを走る】
昨日たどり着く予定だったエルオウェドで朝食を取った後、深い霧雨の中、視界を見失いそうになりながらひたすら走る。距離を重ねる度に草木は少なくなり完全に蒼窮と砂の台地になってきた。アルジェリアの液化ガスの小タンクを満載したカミヨンに幾度も追い越しをかけながら、ついにアルジェリアの幹線道路N1に合流するT字路に着く。右は再びの地中海へ向うGHARDAIA方向、左はサハラを目指すホガールルートだ。休憩では十分な水分補給をする。ガイドから差し出された甘いなつめやしは栄養補給に最適である。

ルートを左にとったらいよいよ縦貫道を南下すべくサハラに向ってアクセルを全開した。
ミシュランの地図では確実に自分たちの現在地はサハラに突入している。北からかぶさる様に広大なグラン エルグ オキシデンタルが位置し、行く手の左側の世界は砂丘というより砂礫と小岩の荒地、地球からニョキッと出た様な奇岩、テーブルマウンティンの姿は月の世界にでも舞い降りた地形だった。そして地平線に延びる一本道の失点だけを目指してひたすら南下する。
昼からは太陽に向って走り続ける。太陽光線は容赦なく身体を刺し、茫漠と広がった台地に“不毛”の意味をいやでも突きつけられる。

私たちは約140キロ毎にガソリンを補給した。容量の少ないバイクに合わせた休憩ポイントとなっている。そこではマシンのチェックの後、写真を撮ったり砂の感触を味わう様に道から外れて歩いたりそれぞれの静漠の空間を楽しむ。
私は自分が今来た道を振り返って見る。どんなに目をこらしても走って来た道の他、何の突起すらなかった。行く手も同じ砂礫の地平線に続く道以外何もなかった。南下するにつれ舗装路のコンディションが悪くなる。大きな穴を回避しながら蛇行して進む。こんな広大な範囲の修繕をいつ、誰が、どのくらいの時間をかけて直せるものなのか・・・

エルゴレアの手前数十キロ、西方大砂丘の風が作り出した巨大なうねりをもつ砂の屏風を目にした時、身震いしてしまった。ぬける様な青い空とのコントラスト、そこに浮かぶ砂の陰影があまりにも美しかった。想像を越えた空間に立ち、私は初めてサハラは何者か知った。
しかしそれは言葉ではどうしても言い表す事が出来なかった。